ある特定行政書士massanのブログ

財務省のことをザイム真理教などと言ってはやし立てるのはオウム真理教を擬えたことが分かるだけに私はあまりいい気がしない。2023年10月1日から実施される消費税における「インボイス」制度にかかるネット上を中心とした”騒動”は、あり意味真っ当なことがいかに通りにくいことであるかということを示す格好の材料となりそうである。

認識共同体という社会学の分野での述語がある。中野武志からネットの動画で私は初めて聞いた。最近のことであるが、『小室直樹著「日本資本主義崩壊の論理」1992年 カッパビジネス』の193ページから197に「共同体」なる言葉が登場する。中身は同じだろうと思う。

そこには第二次世界大戦の水際に「昔の陸軍の内務班」が果たした役割に言及している。ここにある記述になぞらえると岸田総理の命令など彼ら(財務省)は聞かないだろう、というという結論が得られる。従って「インボイス反対署名」が50万を超えようとこれによって総理がインボイス制度を止めることは無いだろうというのが私の見方だ。

初めに書いたザイム真理教などと揶揄するのではなく、これを学問的に分析することがあってもよいと私は思う。

あるイベントの会計処理は意外なほどに四苦八苦だった。もっとスマートな方法はいくらでもあっただろうにと今になってそう思う。誰かに手取り足取り教えてもらってもそこに自分なりの工夫を入れ込むことは難しい。しかし会計の原則を疎かにしてはならないのは鉄則である。

一般的な会計に特別な会計を分離したのがまずかった。自分の頭の中では、立場が変わるから、収入なのか支出なのかが混乱してくる。簿記でいう本支店会計のようなものだ。今回は立替えて支払った部分があったから余計に複雑だった。それを別会計にすれば、より簡単になると考えたのだが、その考えは間違っていた。

そこで考えたのが、勘定科目を工夫し単純化することだった。仮払金については、実際にお金が動いたから外せない。課題は誰かのために立替えた部分だ。その部分にかかるを「××××」と、誰かの名称を直接、勘定科目とした。

そのようにしたら、仕分帳は一つで済んだ。行ってみると実に簡単なことだった。でもやってみないことにはわからないことだった。

生活保護法を読んで気づいたことがある。それは、生活保護法を含む多くの行政法は、行政が守らなければならない法律ではないかということである。しかし、多くの行政は、国民や市民を統制あるいは支配の道具としてみているのではないかと、私は、しばしば考えてしまうのである。

役人がそのようなことを意識しながら仕事をするのであれば、行政の歪みを指摘して行政の歪みを糾すこともやりやすい。厄介なのは、役人がそれを意識していない場合である。



彼らの遵法意識が高いとどのようなことが起きるか想像してみよう。市民は、法律の拘束をうける。役人も市民を拘束するのと同じ法律の拘束をうける。法律の効力である。公務員だからといってその拘束力から逃れられるわけではない。



ところが、公務員は、一般的には市民が知るところではない法律もどきに拘束される。上級官庁からの通知である。もっとも、この通知を逆用して私は行政庁に対して通知を守れ、と主張することがある。このようなやりかをすることは稀であることをつけくわておきたい。



このようなことは、法律に書かれていないところで出現する。彼らは言う。法律の条文の隙間を規則、通達や要領で埋めるのだ、と。彼らのこのような考え方から生ずる陥穽は、その多くが勘違いか勉強不足である。彼らに染み付き、絡みついた悪習である。このような悪習は、彼らが入職してから、自ら勉強し自分の頭で考える良き慣習を捨ててしまうからである。



すぐに身近な同僚、上司に答えを求める。意見を求めるのではない。答えを求めるのである。自ら考え、自分なりの答えを用意して意見を求めることはしないのである。ここで気をつけられなければならないことは、細部を求めるあまり全体ーー行政法や憲法、条理や原則が蔑ろにされる危険性が、彼らの身近かに常在するのだ。この陥穽はすぐそこに、今存在するのである。



彼らに、法律と通達との、どちらが優先するのかと問うてみるがいい。この問いは、彼らにとっては残酷だろう。このジレンマが彼らを苦しめる。だが、彼らにはこの問いに答える責任と義務がある。そして、このようなことは行政の最前線である窓口で生起するのである。

行政のする遺品整理

2020年10月19日
1:32

1、
「地方公共団体における遺品の管理に関する事例等」の15ページの下から13行目から最後の行までの記述はどこか変だと私は考えます。
「それ以外の規定は、現行法上見られない」と言い、その結果、「相続人以外の者が許可なく整理・処分をしてしまうと、不法行為となってしまう」
としています。この点に論理的飛躍があるのです。

2、
生活保護法第76条1項は、(遺留金品の処分)との見出しで、以下のように規定しています(下記参照)。

【第七十六条 第十八条第二項の規定により葬祭扶助を行う場合においては、保護の実施機関は、その死者の遺留の金銭及び有価証券を保護費に充て、なお足りないときは、遺留の物品を売却してその代金をこれに充てることができる。
2 都道府県又は市町村は、前項の費用について、その遺留の物品の上に他の債権者の先取特権に対して優先権を有する。】

3、
生活保護法76条1項は、遺留金品について、相続人以外の者(つまり、例えば、半田市などの行政)が許可(例えば被保護者の相続人の許可)なく整理・処分を前提とする行政処分であり、この行政処分が不法行為という民法上の行為を招く、という記述が「変」ということです。生活保護法第76条1項の行政行為は、被保護者の「遺留品」をお金に換えることを前提にしている規定でと考えられます。
 また、生活保護法は、被保護者の葬祭を行うことにつき、被保護者の遺留品を売却して葬祭費に充てることを想定したものであり、れっきとした行政処分です。この行政処分が民法上の不法行為に当たるとする解釈はおかしいと私は考えます。

4、
「地方公共団体における遺品の管理に関する事例等」の15ページにある「それ以外の規定は、現行法上特段見られない」から、ではなく、この規定(生活保護法76条1項)があれば十分であり、この規定に則って行政が行った「被保護者の遺留品を売却して葬祭費に充てた」行為が何故民法上の不法行為となるか私にはわかりません。

5、
生活保護法施行規則22条で、生活保護法第76条1項を受けて、さらに詳細な規定を置いている。「地方公共団体における遺品の管理に関する事例等」の15ページの下から13行目から最後の行までの記述は、生活保護法76条1項及び生活保護法施行規則第22条を全く空文化するものであり、市町村が果たすべき責務を行わないことに対し、お墨付きを与えるかのごときものであると私は考えます。

6、
つまり、生活保護法76条1項の条文中、【充てることが「できる」】とあるから、「行わないこともできる」との文言が行政の職員の口から出てきそうですが、これについては、やろうとすればできるのにやらない、そして国(総務省)が不法行為に当たるからやってはいけない、とのシグナルを出しているのではないかと私は考えます。

6-2、
「処分をすることが「できる」と法律に規定されていても、それは行政機関に処分の権限を授ける趣旨であって、要件を満たす場合には処分をしなければならないと解釈される。したがって、法律の文言だけでは決め手にならず、次に述べる処分の性質をも考慮しなければなければならない。」(基本行政法第2版 中原茂樹著130ページ参照)。
7、
そのような意味で、「地方公共団体における遺品の管理に関する事例等」15ページの記述は、「他人の遺品を許可な整理・処分してしまうと、不法行為となってしまう」と書かれていますが、生活保護法76条1項に基づいてする他人の遺品を許可な整理・処分」については、民法上の不法行為は成立しないと私は考えます。この点で、「地方公共団体における遺品の管理に関する事例等」の15ページの下から13行目から最後の行までの記述は、誤っていると私は思います。

8、
考えてみると、一つのたとえをのべるなら、行政は私人から税金を徴収します。これを私人の財産権を侵害するという理由で「不法行為となってしまう」から、税を徴収しない、と行政は言いますでしょうか。税を徴収することに市民の許可を必要とするでしょうか。

<以下、参考条文等>

生活保護法第76条は、(遺留金品の処分)との見出しで、
【第七十六条 第十八条第二項の規定により葬祭扶助を行う場合においては、保護の実施機関は、その死者の遺留の金銭及び有価証券を保護費に充て、なお足りないときは、遺留の物品でしょうかを売却してその代金をこれに充てることができる。
2 都道府県又は市町村は、前項の費用について、その遺留の物品の上に他の債権者の先取特権に対して優先権を有する。】

生活保護法第第十八条葬祭扶助は、困窮のため最低限度の生活を維持することのできない者に対して、左に掲げる事項の範囲内において行われる。
一 検案
二 死体の運搬
三 火葬又は埋葬 四 納骨その他葬祭のために必要なもの
2 左に掲げる場合において、その葬祭を行う者があるときは、その者に対して、前項各号の葬祭扶助を行うことができる。
一 被保護者が死亡した場合において、その者の葬祭を行う扶養義務者がないとき。
二 死者に対しその葬祭を行う扶養義務者がない場合において、その遺留した金品で、葬祭を行うに必要な費用を満たすことのできないとき。






生活保護法施行規則
(遺留金品の処分)第二十二条 保護の実施機関が法第七十六条第一項の規定により、遺留の物品を売却する場合においては、これを競争入札に附さなければならない。但し、有価証券及び見積価格千円未満の物品については、この限りでない。競争入札に附しても落札者がなかつたときも、同様とする。
2 保護の実施機関が法第七十六条の規定による措置をとつた場合において、遺留の金品を保護費に充当して、なお残余を生じたときは、保護の実施機関は、これを保管し、すみやかに、相続財産管理人の選任を家庭裁判所に請求し、選任された相続財産管理人にこれを引き渡さなければならない。

3 前項の場合において保管すべき物品が滅失若しくは き❜ 損のおそれがあるとき、又はその保管に不相当の費用若しくは手数を要するときは、これを売却し、又は棄却することができる。その売却して得た金銭の取扱については、前項と同様とする。


地方公共団体における遺品の管理に関する事例等
(遺品整理のサービスをめぐる現状に関する調査結果報告書別冊)

2 引取り手のない遺骨、遺品、遺留金の取扱いに関する制度
(1) 引取り手のない遺骨に係る制度
火葬後の遺骨の扱いについては、具体的な制度がない。
(2) 引取り手のない遺品に係る制度
行旅死亡人の遺品については、行旅法第 12 条において、保管に不相当の
費用や手数を要する場合等を除いて、市町村が保管することとされている。
また、同法第 13 条において、市町村が遺体の埋火葬を行う場合、遺体の取
扱いに要した費用が、遺留金・有価証券で充当等しても不足する場合には、
「遺留物品」を売却して充当することができるとされている。
さらに、亡くなった方が生活保護受給者の場合については、葬祭扶助(生
活保護法第 18 条。その者の葬祭を行う扶養義務者がないときや、遺留金品
で葬祭を行うに必要な費用を満たすことのできないときに、火葬等に要する
費用について、20 万円前後を上限として支給される。)を行うことができる
が、この費用についても、遺留の金銭・有価証券で充当しても不足する場合
には「遺留の物品」を売却して充当することとされている(生活保護法第 76
条)。
しかし、それ以外の規定は、現行法上特段みられない。
そのため、住宅内に残された遺体の引取り手がない人の遺品については、
通常、民法の規定が適用され、相続財産として、故人が亡くなった時点から、
その相続人が一切の権利義務を承継することとなる(民法第 882 条、第 896
条)。すなわち、遺品の所有権・占有権は相続人に移ることになり、相続人
以外の者が許可なく整理・処分をしてしまうと、不法行為となってしまう。
-16-
ただし、相続人の存在が明らかでない場合については、相続財産は法人とな
り(民法第 951 条)、申立てにより相続財産管理人を選任することとなる(民
法第 952 条第 1 項)。
市町村が事業主体となる公営住宅に関しては、近年、公営住宅の単身入居
者が家財等を残したまま死亡する事案が発生していることから、国土交通省
が、地方公共団体からの要請を受け、平成 29 年 1 月 25 日、「公営住宅にお
ける単身入居者死亡後の残置物への対応方針(案)」を策定し、残置物への
対応方針を示している。
(3) 引取り手のない遺留金に係る制度
行旅法第 11 条及び墓埋法第 9 条第 2 項においては、遺留の金銭・有価証
券は、埋火葬等に要した費用に充当することとされている。
また、生活保護受給者の場合は、葬祭扶助に要した費用について、遺留の
金銭及び有価証券がある場合は、これに充てることができるとされている
(生活保護法第 76 条)。
これらの充当を経ても、なお残余が生じる場合、生活保護法上では、速や
かに相続財産管理人の選任を請求し、引き渡さなければならないとされてい
る(生活保護法施行規則第 22 条第 2 項)。生活保護法以外の場合について
も、現行法上特段の規定はみられないため、民法の規定に基づき、相続財産
管理人の選任を経て、最終的に国庫に帰属することとなる(民法第 951 条か
ら第 959 条)。

尊厳死宣言
20201.07.29
1
尊厳死がなされるまさにそのときに、尊厳死を迎えたい意思を宣言をした者が尊厳死の意思表示ができないということに、尊厳死の特殊性がある。
この宣言は、この宣言をする者が亡なくなる前になされ、亡くなる前にその効力が発せなければならない。遺言者が亡くなった時に効力を発する遺言書とはその点で異なる。
2
延命治療をしないでもらいたいという意思表示と、これ以上私は苦しみたくないという意味を持つ安楽死とは、大きく異なる点である。
安楽死については、不治の病にかかった者が、自らの死を能動的に求める者であり、尊厳死は、周りの者に迷惑をかけたくないという意味が含まれる場合が大きい。この点においても、尊厳死と安楽死は、動機において異なる。
3
日曜午後10時からBS3で放送されている、小規模な「ホスピス」を物語る連続ドラマを私は見ている。ここでは緩和ケアが行われている。
このドラマは、終末期の医療は、「人の死」を前提としているが、安楽死でもなければ尊厳死でもない。二種類の「死の有りよう」そのものではないが、ここでの死は、両者の死の有りようを部分的に含みながら、「安らかに死にたい」と思う人々の心の底からの願いに違いない。
従って「安らかに死にたい」と思うことは、尊厳死と安楽死の両者を部分的に含みつつも、やはり尊厳死と安楽死とは別物のような気がするのである。
4
このことは、医療の現場で働く人々、ホスピスに入院している者どうしがどのような関係を持つか、また家族とどのような暮らしをしてきたのかということと密接な関係がある。
5
この件については、まだ考え中である。

オリンピック観戦随想
2021.07.30


オリンピックのテレビ観戦で頻繁に聞こえる言葉がある。「あきらめない」という言葉である。「諦めない」という言葉は、勝者にも敗者にも野放図に使われる。勝者に対しては諦めなかったから勝ち、敗者に対しては、最後まで諦めない戦いぶりはすばらしかったと。
戦いはいつか終わる。称賛されるべきは、「戦い」そのものだったり戦いぶりだったりする。だからこそ敗者は勝者を讃え勝者は敗者を讃える。どの戦いも称賛されるに値するのである。「戦い」こそ称賛されてしかるべきで、その「戦い」は勝者と敗者の共同作業に違いないからである。それがスポーツではないだろうか。結果のみならず結果に至る過程にも私は目を向けたい。
諦めないとは、明らかではないことをいう。勝敗はいつか明らかになる。にもかかわらず、諦めないことを強調するばかりでは、いつか判断を誤ることになりはしないだろうか。苦しいのに諦めないでいれば溺れてしまうこともないとは言えない。
仮に諦めないことを称賛しなければならないのなら、オリンピックの中だけにしてもらいたい。選手たちは、とてつもない日々の努力を経てオリンピックの舞台に立つ。そのことのみに対しても称賛に値する。
私は、諦めないことを一般化しないでもらいたい、と言いたいのです。むしろ、諦める判断こそが称賛されるべきこともあるように私は思うのです。この判断は物静かで多くを語らない。諦めないことによって求めるゴールを得るためには、幾多の諦めがあるだろうか。諦めないことを声高に叫ぶのであれば、諦めるという価値ある判断の大切さも扱ってもらいたい、と私は願う。

2021・07・16
「酒類提供問題
深刻な政権の機能不全」
 これは7月16日付け中日新聞の社説の見出しである。このなかで、社説は「酒販売業者や金融機関への要求に法的問題があるのは明白」である、と論じている。
 では、法的問題があることが明白であるにもかかわらず、この記事にあるような政策が何故、事務連絡の形で行政指導されたのか、という問題は残されたままである。
 また、「明白」であるとしても、この政策のどこが何故問題なのか社説では触れてもらいたかった。少なくとも、この政策を立案した者は、法的問題があるとは思っていなかったはずである。この政策の立案者にとっては、法的問題があることは明白ではなかったのである。
「明白である」ことの言葉の使われ方は、実は、明白ではない部分を含むのが常なのである。

夏目漱石の草枕の冒頭には、「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」とある。

この世を正直に生きようとすれば実に窮屈である。流されて生きるほどには正直さが許さない。でも、この世を儚んでも仕方がない。挑戦しろとは言わないけれど、みんなが少しずつの小さな力を出し合えば、何事かを成し遂げることができるのではないかと思いたい。


2019.12.17

ぼくが小学生から中学生になった頃は、万年筆を買い求めるのが定番だった。中学生になって、それをワイシャツに引っ掛けて登校した。しかし、万年筆をあまり使った覚えがない。それどころか、万年筆のインクがワイシャツに沁みてしまい、インクの色を落とすのが関の山だった。どうして中学生になったら万年筆を備えるのか、いま思い返しても皆目わからない。

ぼくは、よく万年筆を使う。JR半田駅のすぐ側に川口万年筆という店があった。看板には「世界の万年筆」と謳っていた。そこで万年筆を買うとサービスでアルファベットの名前を刻んでくれた。だからぼくの万年筆で川口万年筆で買い求めた万年筆には、ぼくの名前が刻まれている。

スペアインクもその店には置いてあった。ぼくには、川口万年筆はおあつらえ向きの店だった。しかし、川口万年筆のご主人の川口さんは、数年前、店をたたんだのである。万年筆を置いてある店が少なくなった。それにつれてスペアインクを入手するのが難しくなった。実に嘆かわしい。

それはさておき、万年筆は、それを遣う者との相性が肝心であるらしい。作家の宮本輝は「生きものたちの部屋」に収められた小品「インクと万年筆」で、自身と万年筆との遍歴を披露している。

宮本輝は万年筆は自己主張する、と書いている。ぼくも何本か万年筆を持っているが、気に入った万年筆をよく遣うがそうでないものは殆ど遣うことがない。殆ど遣うことがない万年筆はきっと自己主張が強く、ぼくに遣われることをよしとしないのであろう。でも、年月を経てきっと両者の気があうときが訪れることを願いたい。

2019.12.24

先日の投稿では阪神・淡路大震災について触れた。当時映し出されたテレビの画面はひどいものだった。ひどいどころの騒ぎではなかった。何もしない、何もできない政府。政府の危機管理が全くできていなかったことが如実にテレビからリアルタイムで伝わった。このような場合にも公は自助を強調するのだろうか。

このような災害時にも政府や自治体は自助を持ち出すのだろうか。いつごろからか、公は自助を強調し出した。自助とは平たく言えば、自己責任のことである。目の前にいる被災者にも自助だから、とい言うそうな始末である。

少し、立ち止まって考えてみよう。できるだけ、皆さんができることは、皆さんがしてください、という意味ならば、理解できるが、現に公助を求めている被災者に向かって、あなたは自助をしなかったから、公助は受けられないとでも言うのだろうか。

昨今、自助、共助、公助に優先順位をつけているように僕には思われる。自助を声高に唱える公は、公としての責任を放棄しているのではないだろうか。こういう意味において、公が自らの責任を縮小しようとするのであれば、ぼくは、これに対しては異を唱えたいと思う。自助を優先するという前提に立った公助はどのような思想に従って設計するつもりなのか、詳らかにする義務が公にはある。公は最大限の公助を行う責務がある。最大限の公助では、間に合わないのであれば理解できなくもないが、自助を奇禍として公助を疎かにすることは許されない。

発災時には、場合によっては自助よりも公助が必要な場合が存在するのである。つまり、ケース・バイ・ケースなのである。これを考慮することなしに、ただやみくもに自助が優先するなどという防災や発災時の考え方をするべきではない。公の役割を縮小するために自助を言うのであれば、それは、考え違いである。

もちろん、私は、自助を全く否定するつもりは無い。どうして自助を公助より優先させるような空気を作り出すのか。自助を公助より優先させる哲学は何なのか。それを明らかにしていただきたい。仮に、自助をしない者に対して、公助を受ける立場にないと公が考えるのであれば、公には確固とした哲学がなければならない。自助が重要であることは否定できないが、公助が重要であることも否定できないのである。

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